切迫早産による三か月の入院生活を経てついに退院

4/12のおしるしがきてからというもの、それまで感じることのなかったお腹を張りを感じ屯用で平均一日3錠ウテメリン内服するようになった。この前駆陣痛が本陣痛に移行しないことを願いながら朝夕のモニタードキドキしながらやってた記憶がある。

張りやすい時間帯は仮眠をとったりドラマや映画をみて自分で自分をごまかしながら一日でも長く妊娠生活を続けられるようにした。初おしるしから10日から二週間に一度のペースでおりものに血が混じったものが二回ありそのようなことがあると、緊張感が戻り一日でも長くここにいて赤ちゃん大きくなってもらわないとと思えたが、間のなにもない期間は週数が進むにつれてもう帰りたいそろそろ帰ってもいいんじゃないかと強く退院を希望し担当医によくかけあっていた。

担当医からもいい週数になってきたし、なにもないからじゃあそろそろ退院考えましょうかと言ってもらうとその翌日や翌々日に出血をすることが多かったため、退院の話はオフレコだねと冗談をいっていたのが懐かしい。


その時も週数の赤ちゃんの成長具合をネットで調べあさり、エコー検査の赤ちゃんの体重とにらめっこしながらまだ、肺の機能が完成してないからここで万が一産まれたら大変なことになると自分を戒めて退院したい気持ちをなんとか押し殺した記憶がある。

毎週水曜日のエコーで赤ちゃんの様子や予測体重をみるのだけが楽しみだった。

毎日あと何日でエコー検査だと心待ちにしていた。


34週になると赤ちゃんの肺の機能が完成するとのことで産まれてきてもNICUではなくGCU対応になることが多いとのこと。

イメージとしては細めの赤ちゃんが産まれてくるからあとはGCUで体重だけ増やしてあげればいいとのこと。

この頃になると、入院当日とは違い周りの患者さんよりも自分の方が週数が大きくなっていって随分長いこと入院したんだなと実感した。看護師さんにも今一番長いですね、とよくいわれるようになった。


入院期間を振り返るとどれだけ泣いたかわからない。

看護師さんの前でどうすることもできず泣いてしまうこともあったが、基本的には誰にも気づかれないように音を立てず涙をひたすらに流していたことが多い。

ICUにいた時はいつまた破水するのだろうと常に気持ちが切迫していて情緒不安定になりよく泣いていたが看護師さんの来室も回数が多く、看護師さんの来室の合間に泣いたり消灯時間を待って泣いたりしていて自由がないなぁ自由に泣くこともできないんだなと余計に気持ちが落ち込んだのをよく覚えている。


一般病棟に移動してからストレスだったのは周りの患者さんが外出・外泊をしたり友人や親戚のお見舞いが多かったことだった。

一度きてもらった親友のお見舞いの日出血したのがトラウマとなりそれ以来再出血するのが怖くなってずっと我慢をして断り続けていた。他の患者さんと交流でも持ててたらまた違ったのだろうが、双子妊娠のママさんが多く同じ立場の患者さんが同室にいなかったことや自分でもびっくりするくらいネガティブで自分自身暗かったため人に話しかけるような気力もなくただひたすらベットに横たわり四、五日に一回シャワーを浴びるような生活を送っていた。


そしてついに34週を超え退院の話が現実のものとなった。

そこで問題となったのがどこで産むのかである。自然分娩予定の人だったら家からもさほど遠くないためお世話になったこの病院で産むのが普通だが、私は第二子は絶対無痛分娩と決めていたので当初予定していた通り葛飾区のフェリシアクリニックで産みたかった。

担当医は36週に入ればほぼ正期産だから退院してすぐ36週なるからクリニックでも大丈夫ですよと言ってくれたがクリニックの担当医からの返答はまさかの無痛分娩なら37週を過ぎないと受診も受け付けないとのことだった。

おそらくリスクを一切おいたくないということだろう。35週3日の6/23退院予定のため退院してから37週入るまでの10日の間に陣痛や破水がきたら三か月入院した墨東病院で自然分娩、それ以降まで持てばフェリシアにて無痛分娩というイレギュラーな形の予定となった。それにしてもそんなわがままを最後まで聞いてくれた墨東病院の先生には感謝の気持ちしかない。

退院当日ウテメリンを内服しドキドキワクワクしながら退院の準備をしたのを覚えている。娘にあえること、家族揃って生活できること、外の空気がすえること、好きなものが食べれること、声を出してもいいこと、お友達にも会えること今まで当たり前と思っていたことがキラキラしたものに感じ胸がいっぱいになった。

旦那に迎えにきてもらいサポートしてもらいながらタクシーにのった。

病院をでて外の空気を吸った瞬間生ぬるい風がビューっと吹いてどこか海外にでもおりたったエアポートのように感じた。

よくよく考えてみたら4/1に入院したためワンシーズンすぎていた。春から夏にかわったことも病院にいたら肌で感じることができないんだなと思った。外の世界にでれた幸せを噛み締めながらタクシーからの景色を楽しみ馴染みの自分のマンションについた。

ロビーで早速友達何人かに会いその時点で泣きそうになった。そのあとが外出してた娘とも会うことができて涙が溢れてきた。

久しぶりの自分のベットはフワフワしててあったかくてやっぱり家はいいなと実感した。


つづく。

MFICUから一般病棟への移動

4/9の出血から一週間程経った日、容態が安定しているから新しい患者さんをいれるため一般病棟へ移動となった。

最初は嬉しく思ったがICUと比べて一人当たりのスペースはぐっと狭く四人部屋の廊下側だったため外の景色も見れないためカーテンで仕切られた空間で一日中ひたすら横になってるのがすごい苦痛に感じた。

またいつ再出血するかわからない状況だったため、友達のお見舞いも断り基本旦那だけ面会にきてもらっていた。

一般病棟では双子を妊娠してる多胎妊婦さんが多かった。単胎妊娠と比べて胎児の体重も増えずらく妊娠継続することが難しいため、双子ちゃんの成長を見ながら1日でも長くお腹にいてもらうために子宮収縮抑制剤を点滴でいれたり張り止めのウテメリンを内服して経過をみていた。

入院して初めて双子ちゃんを妊娠することがこんなにも大変で入院を要することだとわかった。


4/1に入院してから一か月が経ち5/1に目標としていた妊娠後期の28週に入ることができた。肺の機能はまだ未熟だけど、他の内臓の器官も完成し胎児の体重も1000gを越えるため生存率が格段にあがると言われている。

この時エコーで1201gと言われ入院時に大きな目標としていたところに到達できすごい嬉しく感じた。

また羊水量がピークに達する時期。破水疑いの自分にとっては羊水量が増えることも心強かった。ここで一つ目標クリアしたので自分へのご褒美としてずっと会いたかった上の子とゴールデンウィークの5/3に面会した。

上の子は7歳でもう小学生だったのでお姉ちゃんと思ってたけど、久しぶりに会う娘の姿は小さく感じまだまだ甘えたい時期に負担かけちゃってるなぁ、でもここでしっかり入院して元気な赤ちゃんを産まないともっと辛い想いさせちゃうから頑張らないとと思った。

医師からは、次の目標は30週ですね、30週になれば下から産めるし肺の機能もだんだん出来上がってきてる時期だからNICUがあるこの病院で産めば大丈夫ですよと励まされた。

30週入る2日前の日曜日が母の日だったためそこで娘にまた会うのを励みに頑張ろうと思った。

ついに医師からも最後の出血から一か月くらい経ってて30週に入るためそろそろ退院考えましょうかという話がでた。

やっとこの孤独な入院生活からも解放されて家族と一緒に暮らせると思い、子宮頸管は、短く切迫早産であることに変わりはなかったが退院に向けて自宅で生活することへの自信をつけるために少し動こう思った。

また入院してからずっと友達のお見舞いも我慢してたから退院前に一度会おうと親友に連絡した。

友達との楽しい時間を過ごし久々に大笑いもし満足して友達と別れた後まさかの出血😱


便器をみると真っ赤な血で染まってる。。

前のような破水みたいな水ではなく真っ赤な鮮血だった。量はわからないものの絵の具のように真っ赤に染まった便器をみて血の気が引いたのを今日のことのように覚えている。

すぐにナースコールをおし、胎児モニター装着。あぁ、バチがあたった。調子にのって友達にお見舞いにきてもらってはしゃいだからだ。家には自分の退院を心待ちにしてる娘がいるのになんてことになってしまったんだろうと後悔で泣きそうになった。

看護師さんからもおしるしみたいな感じですね、いちお旦那さんに連絡してくださいと。

え、おしるし?いよいよ出産?どゆことと

不安と緊張で手が震えた。


その時から今まで感じたことのないお腹の張りを感じるようになってしまった。

キュー、キューと定期的にくる張りと波うつようなモニター。

医師に診察してもらい、今日張ったりしてましたか?今回のは子宮が収縮して子宮壁の一部がこすれて剥がれたところからの出血でいわゆるおしるしですね。赤ちゃんがでようとしてるのかもしれないですね。張り止め屯用でのんで様子みましょうと。本陣痛がきたら薬でもとめられないのでそしたら出産になりますとのこと。


次の日、母の日に会えることを楽しみにしていた娘との面会もなくなり退院の話もなくなってしまった。担当医からは34週になれば肺も完成して赤ちゃんが出てきてもまず間違いなく後遺症もなく産まれてくることができるので34週までいったら退院を考えてもいいかもしれないですねと。

退院予定が一気に一か月も先の話になってしまった、悔やんでも悔やみきれず翌日娘がからの手紙と母の日のお花をもってきてくれた旦那を目の前に号泣してしまった。


でもまだ肺の機能も完成してない30週で産んでしまったら大変なことになるかもしれないと思い緩んでいた気を引き締めなおして気持ち新たに入院生活を続けることになった。


つづく。

切迫早産によるMFICUでの入院生活

4/1に出血し入院してから3日後に診察があった、新しい出血はないものの排便するのさえ怖い中また膣にエコーの棒をいれられるのに恐怖を感じた。

緊急入院時に膣付近に見えたモヤモヤっとしたもの、出血によるものなのか胎盤なのかははっきりしないがそれが消えたとのこと。

低置胎盤からの出血疑いで入ってきたが消失したため高位破水か胎盤付近の静脈からの出血だったんだろうとの見解で一週間後再検査して異常がなれけば退院日を決めましょうと言われ心の底から安堵し、旦那、両親、友達に連絡をいれた。


上の子にも突然の入院でかわいそうな思いをさせてるのでよかったぁと安心し、その週末旦那に娘を連れてきてもらいICUの外にある面談室で一時間ほど話した。

これで普通の生活に戻れると喜んだのもつかの間、4/9夜中の2時頃再度出血。

突然また生理の時のようにジュッジュッジュッと自分の力ではとめることのできない水っぽいものが膣から出るのを感じてすぐにナースコールを押した。

ベットシーツはビシャビシャになり恐怖で手が震えた。看護師さんにどうしよう、どうしようと。まずは診察しましょうとのことで診察台に連れていかれまたエコー検査される。

緊急入院の時に担当していた医師が当直で僕が夜中担当の時は危ないですねと冗談を言われ、正直それどころではなかったけどそんな会話をすることで少し落ち着いた。

焦ってる私とは対照的に、もう肺熟成促す注射はうってるからやれることはもうやってあるので大丈夫ですよと言われた。

なにが大丈夫なんだろうと思いつつも、確かに出るものを止めることはできないし様子見るしかないよなぁと思った。


原因はまだはっきりしないと。

もし熱がでて感染が起きたら破水だったということになるし、そうでなければこれが破水なのか胎盤付近の静脈の一部からの出血なのかわからないと。

エコーで破水の穴が見れるわけではないからすべて結果論でしか判断できないとのこと。

ただ、感染したらアウトですから。赤ちゃん出すしかないのでその時は緊急帝王切開しますと言われた。なので今日からまた抗生剤開始しますと、退院予定で一番奥のポジションにいたけどそこだと見づらいとのことで、すぐに対応できるナースステーションから近い場所に移動となった。

もし破水をしていたら安静にしていてもでるものは、でるとわかってはいるけど少しでも何か自分ができることはしたくてポータブルトイレをベットサイドにおいてもらいトイレ以外は一切ベットから動かない生活にしてもらった。

そんな中次の日また夜中にポータブルトイレにいくと膣に圧迫を感じた。次の瞬間ボトッという音とともに何かが落ちた。

え、なになに?恐る恐る見てみると拳大の血の塊

え、胎盤?またパニック

すぐナースコール押してまた診察。

医師から以前出血した時も同じようなものがでたって引き継ぎがあったから全く同じかもしれないですねと。

体内で出血した場合、血漿と血性がわかれて先にサラサラした水っぽい血漿が出てきてて残りの血が固まったものがあとになってでてきてる可能性も考えられますとのこと。

もしそれだったら感染のリスクもないし破水よりずっといいなと静脈からの出血であってくれと願った。


破水の可能性も否定できないため、ネットで破水のことを調べあさり足あげたら高位破水の場合にはいいということが書いてあればそれをやり、横になってエネルギーを使わないで食事をたくさんとれば胎児の体重が増えやすいとあれば食欲なくても横になりながら完食を目指し

自分ができることなんてほとんどないけど少しでも良いと思えることはなんでもした。

ただ出るものは止められないし感染もほんとに起きたら抗生剤うっててもとめられない。

前駆陣痛なら子宮収縮抑制剤でとめられるけど本陣痛がきたりとめられない。


熱がでたら、出血し続けたら、陣痛がきたらアウト。

頭の中で三つのことを考えながら1分1秒でも多くすぎてくれることだけを願って生活していてこんなにも無力を感じたことはなかった。今までの人生、努力の先には報われる結果がついてくることがあたりまえのことと思って生きてきた。努力してもどうにもできないことが世の中あるんだと痛感した。

これが末期癌だったら?想像しただけで恐ろしくなる

そんな思いをして生きている人がいるんだなと考えると胸が苦しくなった。


また入院中回りの人が羨ましいと感じることも多かった。

私は23週の時に緊急入院をしてきて2回目の出血翌日4/10の赤ちゃんの体重は747g。1000gに到達するにはあと二週間も先の話。

カーテン越しに聞こえてくるのは30週台のママ達ばかり。妊娠高血圧の人や妊娠糖尿病の人が多かった。破水疑いや原因不明の出血が続いてるような人はいなかった。

MFICUに入院してるくらいだから皆状態がよくないのはわかるが、血圧や血糖値を下げる薬があって妊娠を継続できる状況にあることが羨ましくて仕方なかった。

なによりも週数が大きく胎児の体重が大きいのが羨ましくてしかたなかった。

寝たきりで神経すり減らしながらの入院生活においては一週間経つことがどんなに長いか。また同じ境遇の人と話すこともできないため、友達はネットの書き込み。

そこでありとあらゆる書き込みを読んでは一喜一憂して癒された記憶がある。

破水したけどそんな状態でも一か月以上もってますというような書き込みや低体重で出産したけどその後NICUやGCUでお世話になり元気に退院しましたというような書き込みに励まさた。

希望を持つというチカラは大きいなと、まだ名前は決めてないけど希望の字をいれたいなとその時思った。


つづく。

切迫早産による緊急入院(2018/4/1)

2017/11妊娠発覚してから、パートタイムで看護師の仕事をし家族とディズニーやキッザニアに行くなどいつもと変わらない生活を送っていた。3月下旬の桜の季節にはお友達とお花見をしたりバーベキューをしたり上の子を連れて毎日のようにでかけていた。

そんな中、旦那希望のオランダへの海外赴任も現実味を帯びてきておそらく2018/10から向こうでの仕事がスタートするだろうとのこと。第二子出産予定日が7/25のため出産してから二カ月程で移動することになるのかと少し不安に思いながらも子育てするには自然も多そうだしネットで検索しても教育面も充実してるとのことで前向きに考えていた。

赤ちゃんが産まれてからは時間もとりずらくなって片付けも思うようにできないだろうと日々断捨離に励んでいたのを覚えている。


そして忘れもしない4/1朝方事件は起こった。膣より血性のサラサラとした水っぽい出血、ジュッジュッジュッと3回くらいにわけて生理の時のようにでてきた。

朝方4時頃だったため焦ってすぐに旦那を起こし大変、どうしようと。

ティッシュで抑えながらナプキンをもってきてもらいショーツにセットしながらすぐにかかりつけのところに電話しようということになった。

一人目は普通分娩だったため二人目は無痛分娩に挑戦したいという思いから葛飾区にあるフェリシアクリニックという病院に通っていた。私も旦那もパニック状態でどこに電話すればいいんだっけとあたふたしながら電話番号を探し震えながら旦那が電話してくれてるのを覚えてる。

ひとまず止まってるなら様子をみて朝まで待って9時以降に受診しにきてくださいとのこと。ただ不正出血というにはあまりに量も多く入院も予感してかかりつけではないけれど家から近いもう少し大きめの病院に緊急でみてくれないか打診することにした。

幸い見てくれるとのことで、タクシーを呼ぶことにした。

またタクシーを呼ぶのに時間も時間でなかなか捕まらず旦那が近くの大通りで直接捕まえてくると言って家をでてそのタクシーで向かうことになった。

上の子は爆睡していたので、置いてすぐに病院に向かい実母に連絡をいれ始発でこっちに向かって上の子が起きる前にきてもらうことになった。

ついたのは荒川区リバーサイド病院。

緊急対応で車椅子で診察台まで連れて行ってもらい診てもらったら膣から拳大程のレバー状のものがドロっと出てきた。

担当医師が普通の不正出血ではない、ここでは診ることはできません、血が止まらなかったら母体を優先させて赤ちゃんを出さないといけないかもしれません、その場合はまだ23週のため赤ちゃんが生きていけるかどうかは半々くらいの確率になってしまうと。

何を言われてるのかこれは現実なのか、赤ちゃんをだす?え、どういうこと?

パニックで、頭が真っ白になるとはこういうことをいうんだなという感じだった。

上の子も何の異常もなく、今回の妊娠でも定期検診で異常を指摘されたことはなくまさか自分の身にこのようなことが起こるなんて想像もしていなかった。

同時に心配性の旦那、両家の親皆に心労をかけることになってしまって申し訳ないという感情が出てきて、ごめんねと何度も言った記憶がある。

母体のICUがある病院は限られており今から近いところからあたってみるとのこと。幸い一番近場の錦糸町駅近くにある墨東病院に緊急入院できることが決まった。

リバーサイドで子宮収縮抑制剤のウテメリンを点滴でいれてもらいながら救急車で墨東病院に運ばれた。

医師も付き添ってくれるのだが、その時救急車の天井を見ながら恐怖心で言葉も出ずずっと黙ってこの先何が起こるのだろうと考えていた。ずっと難しい顔をしていた医師に最後引き継ぎの際、墨東病院とってもらってよかったですね、ここなら大きいからちゃんとみてくれますよと励ましてもらったような気がする。

墨東病院の診察台に上がった時には出血は収まっておりエコーでも赤ちゃんが元気に心臓の音を聞かせてくれた。

数名の医師が交代で膣にエコーの棒をいれ長いこと状態をみているので刺激でまた出血するんじゃないか、早く終わってほしいと思った。リバーサイド病院でいれた子宮収縮抑制剤ウテメリンにプラスして、破水していた場合感染の恐れがあるため抗生剤を投与された。

また26週未満の切迫早産の人に、胎児肺成熟を介した新生児呼吸窮迫症候群の発症抑制としてステロイドを母体投与しなければならない。その時23週だったため医師からこのような説明をうけステロイドを筋肉注射した。

その後、検査結果と説明があるから旦那に診察台の部屋に入ってもらって待つよう言われなんて言われるんだろうと顔を見合わせてはため息をつきながら待っていた。

その間看護師さんの問診をうけながら部屋に響き渡る赤ちゃんの心拍の音に、あぁ生きてくれてる出血も止まったしなんとかなる、

きっと大丈夫だと心の中で自分を励ましていた。その後医長から現在の状況の説明があった。原因ははっきりせず破水なのか低置胎盤からくる出血なのかはたまたほかに原因があるのか。今はわからないがひとまず出血が止まっているのと陣痛がきていないため、破水だったときのために抗生剤をいれステロイドを投与し様子をみましょうとのこと。

ただ陣痛がこなくてももし破水していてそこから子宮内が感染してしまった場合には赤ちゃんは外に出した方が安全のため緊急帝王切開をしますと。輸血の同意書、手術の同意書、麻酔の同意書やらたくさんわたされサインしてくださいと。

ペンを握るも心臓はバクバク、手は震えていて全く上手くサインができない。

それだけストレスを感じていて緊張しているんだなと思っていたが、その後になってどうやら子宮収縮抑制剤ウテメリンの代表的な副作用だということがわかって妙に納得した記憶がある。

この時点でお昼くらいになっていて、上の子はどうしているかなとか今日明日の予定キャンセルしなきゃとか段々とほかのことも考えてられるようになっていった。

まさかこの後三カ月もの入院生活が待っているとはその時微塵も考えていなかった。


不妊治療から妊娠発覚(2017/10)

上の子を2011年に出産してから二、三年で二人目もできるものだろうと思っていた。

が、できず上の子が5歳くらいになって初めて不妊外来を受診することにした。

最初は近所の病院でまず検査。不妊の原因となってるものがないかどうか採血したり子宮卵管造影したり一通りやってもらって結果原因不明とのこと。

子宮卵管造影してから半年くらいまでは卵管の通過性がよくなってるとの理由からゴールデンタイムですよと張り切ってタイミング療法に通うも不発💦💦

気づいたら検査始めてから一年くらいはたってて当初通えば半年くらいでできるだろうと甘くみてた自分に気づかされた。


先生から次のステップとして人工授精しましょうか、と。ただこの病院では体外受精はしてないのでここで治療できるのはここまでになりますとのこと。

この病院は家から近い小児科、整形外科、婦人科、皮膚科が併設されている地元では有名なそこそこ大きな病院だったけど一年間不発で終わってしまってることと専門のクリニックではないことに少し疑念を感じここで始めて日暮里のレディースクリニックを受診することになった。

ここでもまた採血やエコー検査初期の検査一通りうけることになった。卵管造影はやってから一年たってないとのことで免除させたがまた一からだ、すぐに人工授精っていうわけにはいかないんだなと思った。人工授精するにあたって感染症の有無を調べるため旦那も事前に採血にこなければいけなかったりパートナーの協力もうけないと成り立たない。

不妊治療がお金も時間もかかるといわれてる理由が改めてわかったような気がした。


先生から人工授精するのは大体多くて4、5回それ以上やっても妊娠確率は上がりづらいからそれでダメだったら体外受精にステップアップしますとのことだった。

人工授精は卵管造影と比べたら全然痛くないですからという先生の言葉を信じトライすることにした。

精子の採取は家でやっても病院にきてからでも人工授精施行までに五時間たっていなければ可能だけど時間は短ければ短いほどいいとのことで旦那にも説明し午前半休とってもらい臨んだ。

来院時大きめのスピッツを渡され奥の部屋でお願いしますとのこと。部屋に何か用意させてるのかなと思いきやただ椅子とティッシュボックスが置いてあるだけだったとのこと。

その後精子の状態を検査され、その上で運動率がいい奇形率も低い精子を適切な濃度に調整してくれる。また結果の紙とともにその日人工授精施行可能かどうかの面談がある。幸い基準値と比べて問題はないとの判断で第一回目の人工授精施行できた。

痛みに弱く予期不安が強いタイプなのでカーテンの後ろで自分の手に爪をたてて下半身の違和感を感じずらいようにした。

たしかに先生の言った通り卵管造影と違ってすぐ終わるしチクチクっとするだけで大きなストレスは感じずに終わった。

その後着床しやすいようにホルモン剤の筋肉注射をうたれ、二週間後の予約をとって帰宅。

二週間後いくも残念ながらまた不発。そこで次回の予約をとる。

不妊治療してわかったことが排卵の時期を確実なものにするために人工授精する日を決めるために受診をしないといけないこと。

人の体だから予想しきれないのでほんとに一回の人工授精のために予定を調整するのが大変だなと感じた。私はパートしかしていないので毎日仕事があるわけではないから調整もつきやすいけどフルで働いてる人はクリニックの空いてる時間も限られている上に日にちが近づくと予約も埋まり始めるため働きながら毎月何回も予約を取り足を運ぶ作業は大変だなと思った。

2回目の人工授精の日旦那がなかなか起きず予約の時間も近づいてるのにのんびりシャワーを入っているためこの日のために事前に受診して注射をうったりしているのにこの温度差はなんなんだろうと悲しくなったことをよく覚えている。

イライラが顔に出始め相手からだったらもっと早く声かけてよと。これは二人の問題なのに時間は事前に伝えてあるし何度も寝てるとき声かけたのにと喧嘩勃発。

いつもならここで投げ出したくなるが、きっと今回ここでやめたら次もう人工授精に通うこと自体億劫になって赤ちゃん授かることから遠のいてしまうと思って泣きながらクリニックに少し遅れるが対応してくれるかと電話した記憶がある。その甲斐あってか2回目で無事着床。自宅での妊娠検査チェッカーを使ったとき線が入って嬉しくて嬉しくて写メをとった。

一人目は当時25で若かったこともありなんの苦労もせずできて嬉しいというよりはどうしようという不安の方が大きかったのに、欲しい欲しいと思う時にはなかなかできなくて自分の妊娠への受け止め方が大分変わったなと思った。